2025年8月9日 12:30頃
ベッドサイドモニターのピー音が鳴った
6月中頃から急激に老衰が進んだように見えた。
独居で家にいる時は食事しない、つたい歩きも危うい、トイレの失敗が進んだことから、独りでいさせるのはもう無理があると、付き添い見守りが必要となり、特養が見つかるまでショートステイのロングで乗り切ろうと計画し、ケアマネをせっついて9月までメドが経った矢先だった。
2025年8月8日(金) 朝
見守りの為泊まっていた私は出社するため、母に朝食を取らせるためベッドから起き上がらせると、母は吐き気の様なゲップを繰り返した。
気分が悪いのかと尋ねるもはっきり答えず。
最近は受け答えもムラがあった。
首、身体を触ると強い熱感。熱は37.3ほど。
2002年の子宮体ガンの後遺症である象足のようなリンパ浮腫の右脚も赤いので湿布を貼っておく。
食べさせないと出社もできないため、食べるか聞くが答えず、食欲はない模様。
これは熱中症だろう…と疑い、熱を下げるため保冷剤などで、首、腋を冷やす。
水分、スポーツドリンク、梅干し等少しずつ与える。
そんな処置を繰り返している間に、生あくび、腕の震えなどがあり、後に肩で息をするようになる。
熱中症症状が強いため、出社を諦め8時半を回ったところで、母宅から1分ほどの町医者に電話。
診てもらえることになったので、手を引き玄関の車イスまで歩かせ、電話から20分後には病院着。
病院はとても涼しかったため、家よりも楽そうな感じにみえた。
コロナ、インフルと検査は陰性。
血圧も120位 パルスオキシメーターも問題なし。
熱はあるが血液検査でも白血球も高くなく重篤な感染症疑いなし。
ということで、熱中症だろうと帰宅させられる。
熱中症なら 冷やして水分摂るくらいしかできることもないですか?とドクターに聞くと、脱水があるとトイレに行かなくなるのも目安になります。と言われ、そういえば毎晩トイレに3回は起きるのに、昨晩は4時半の1回のみだったと気づく。
しかし、この朝の通院が運命を左右するとは、この時気づくはずもなく。。。
病院にいるときから、どうも臭いと思っていたら、帰宅後に足まで汚物が垂れていたと気づく。
既にトイレの失敗はよくあることだったので、立たせたままおむつを外し用心深く風呂に連れていこうとしたが、この時点で自力で立てず、すぐに床に座ろうとする。
私も非力なので倒れるように座ろうとする母を支えられず、自分の肩で母の背中を支えたりして、母に手すりに掴まるよう頑張ってもらい、隣室にあるお風呂イスを持ってきて座らせ事なきを得る。
イスに座らせたまま引きずりお風呂で処置をした後、着替えて寝かせた。
相変わらず食欲は無いようなので、少しずつ水分補給し、スイカを何口か食べさせる。
思えば、このスイカが最後の食事となった。
スイカは母の好物で、前日もスイカを買っていき甘い?美味しい?と聞くと、「美味しい甘いよ」とハキハキと答えていた。
ここのとこ、あまりしゃべらず問いかけにもボーっとするシーンが多かったので、この前夜は、デイサービスの話をしたりなかなか雄弁だった。
最後の食事となったスイカを食べた後、うとうとと寝ており、時おり水を取らせながら、昼過ぎに迎えがくるショートステイに行く段取りをしていた。
家の環境よりもトイレ等の移動が楽で、室温も快適な施設の方が身体が楽なはずなので、ケアマネにも相談しつつ、最悪、ショートステイ施設で救急車を呼んでもらう方がよいとの判断からだ。
13時頃 見送りのためのヘルパーが着き、歩けない母を車イスに乗せ見送った。
これが意識がある 最後だったが、既に受け答えもボーっとしていた。
それも熱中症のせいと思っていた。
私は、1週間後にショートステイから一度戻ってくる母の為に、準備万端でいようと片付けや家事を済ませた。
その後17時過ぎ帰路途中の渋谷でショートステイ先から、連絡を受ける。
「16時時点で発熱38℃、蜂窩織炎疑いです」と。
引き返してショートステイ先である学芸大学へ戻り17:45分に施設に着くと、脚は臀部まで発赤があり、呼びかけも答えず。
すぐに救急車を呼んだ。
救急が着くと 体温40~42℃、呼んでも答えず、手も握り返さず意識障害有り、敗血症と言葉が飛び交っていた。
過去にも蜂窩織炎で救急を呼んだことがある。
2019年11月6日
そのときはデイサービスより朝電話があった。朝、デイの人が迎えに行くと部屋中 脱糞状態で本人は裸で布団に居り着替えの最中。
ケアマネの指示通り一度はデイに連れて行くも、37℃ちょっと熱があるためインフルを疑われ帰宅させられた。
12時過ぎに母宅に着。38℃以上熱があるため、救急車で東京医療センターへ。
両脚、腹部まで炎症が拡がり、蜂窩織炎として2週間入院しリハ病院へ転院しこの時は計1ヶ月入院した。
この年は9月にも蜂窩織炎疑いで診察をうけていたが、2019年以降、悪化することはなかったのでさほど気に留めていなかった。
脚部の蜂窩織炎については、もう少し注意をはらっているべきだった。
8月8日18時すぎ
救急車は、脳梗塞と蜂窩織炎で入院履歴がある東京医療センターへ。
病院に着くも混雑してか、車内でしばし待たされる。
その間、心拍を測る機械の音が時折飛び、救急隊員から「不整脈はありますか?」と聞かれた。
母は心臓で何か言われたことはなく、いよいよ不整脈まで出ていた。
救命救急のある東京医療センターはいつも救急がとても混んでいる。
検査検査でドクターから呼ばれたのは21時すぎ。今回は前より重度なので、いつ何が起きるかはわからない。
熱も40℃と高いのでとのことだった。朝、診てもらった医者の血液検査の紙を救急隊員に渡しており、その血液検査の話になり、「白血球が低い場合も問題なんですよね」と言われ、今さらながら、3500という白血球減少のラインだと気づく。
いつもなら細かく疑いの目で見たのに…
既におかしな兆候だったのを見落として、医者の「重度な感染症の疑いはない異常なし」を信じてしまった。

その晩、23時過ぎに母と病室で別れた時には、目も見えているかわからない中、少しもちょもちょと手を動かしていたりして「病院で入院しているからね。頑張って また明日来るから」と声をかけて帰った。
2025年8月9日
学芸大学の母宅に泊った私は、ショートステイ先に残してある荷物を取りに行こうとしていた。
11時頃、病院から電話があり血圧が上がらず急変あってもおかしくないと連絡を受け、急遽タクシーで向かった。
ICUに移ると電話で聞いていたのでICUの階に行くもまだ移動しておらず…
元の病室の階にいくとナースステーションの横で処置されていた。
その時はICUが混んでいるのか…と思っていたが、後に考えてみると、既にICUに入れても意味がなかったからだと気づいた。
12:20頃に案内された時、母の肩口に触ると「冷蔵庫にいたの?」というくらい皮膚は冷たく黄みを帯びており、ベッドサイドモニターは既に40だった。
ああ、こりゃダメだ…
思わずそう呟いた。
ナースから「耳は最後まで聞こえているというので、声かけてあげてください」と言われ、既に戻りそうにはない母に向かって「みんな向かってるからもう少し待ってね」と言った。
39、38、37とカウントダウンしていき…15の後 0となったのは12:30頃だった。
結局、私以外は間に合わず、12:30 姉から今着いたとLINEがきていた。
大蔵住宅の建て替えに伴い、2018年5月に目黒の都営住宅に転居し、角田家ゆかりの地に越したことを喜んでいた。
しかし、引越を機に壊れたエアコンを購入しないまま7月に熱中症で救急搬送され、その後、脳梗塞となる。
熱中症を機に脳梗塞というのは冬場よりよくある事例だと後で知った。
この入院時、隣のベッドにおばあちゃん、民ちゃん、ミーコのせん妄をみたりしていた。
脳梗塞からリハビリ病院転院、老健を経て、自宅に復帰できたのは2019年8月で約1年後だった。
脳梗塞の後遺症は、高次機能障害で主に軽い視野欠損のみ。
上部の信号が視野に入らないなど一人で出かけるのは難しく止めていたにも関わらず、何度か一人で外出し、転倒したり、迷子になって親切な人に送ってもらったり、交番のお世話になったりもした。
自宅復帰してから約6年、複数のデイサービス、ヘルパー、ショートステイなどを駆使し、介護サービスの方々に支えられた晩年だった。