http://maysion.seesaa.net/article/185258574.html のつづきです
私はそれまで、自分の人生とは自分の思い次第でどのようにも生きられる。
そして年齢を重ね経験を積めば尚の事、自分の人生の主導権は自分にあると信じていました。
その生命さえも…
しかし、ここに来てそうではないと悟ったのです。
「私は何々になりたい。こんな人になりたい。あんな人になりたい。こんな風に生きたい。」
そう考え生きる事に意味づけをするのは人間だけです。
何とおごった生き物でしょう。
何億という精子の中からたった一つ、他の精子を犠牲に勝ち抜き生命を得る。
それだけで奇跡的な確立なのに、その生命を維持するという基本のことすら疎かにしておきながら、何になりたいというのでしょう?
私達はただ息をして生きているだけ。
そして、生殖し次の生命を繋ぐ、ただそれだけの事なのです。
そのように与えられた生命システムに沿って生かされているだけなのです。
何になりたいとか、こんな風に生きたいとかそんなことはただのオマケです。
それを忘れ、多くの生き物を喰らい、自然をも無秩序に壊し、時には同種の人をも殺し、その屍の上に生き続けている。
生かされているとも思わず、生きる意味づけを探し、生き甲斐などという言葉を使い、我がもの顔に振舞う、それは人にだけある業と言えるもの。
他の生き物は、自分の評価や生き甲斐などを気にして生きるものはいません。
動物社会の中でボス争いがあったとしても、それは自分の種を残す本能からくるもの。
ボスであることを自己評価し、生き甲斐を見出し安心を得るものではないのです。
私が病院で老人から気づかされたメッセージはとても意味深く大きなものでした。
少し話を戻しましょう。
人は、他の動植物と異なり、生き続ける生命のシステムだけに満足せず、自分を評価し“よりよく生きる”を体現することを目的に生きる運命にあります。
では、なぜ人だけがこんな業を持ち合わせているのでしょう?
その13へつづく…
http://maysion.seesaa.net/article/185644730.html
※自然の法則その8までは2005/9/1に、その9からは2006/3/19に記したものです。
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よく考えてみたりしますねー。
業
行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説。
【広辞苑第六版より引用】
一般には、前世の行いによって受ける報い。
のように言いますが、愛すべき人ほど、すぐに他界したり、どうしてあの人がこんな理不尽なことに…というのを見ると、そんな理由があるのかも知れないとも思ったりします。