2006年11月14日

ダライ・ラマ講演へ(その4)

ダライ・ラマ法王の講演の質疑応答の中には、
私の想定外のものもありました。
質問の中には「私は何者かに支配されているのですが、どうしたら良いでしょう」とか
「さぁ、みなさん、ここにいる皆さんに法王様から光をいただきたいと思います」と言う方もいました。
法王は、前者の問いに「私にはわかりません」と答えました。
後者の問いには「私は光を出せません」と答えました。
(きっぱりと答えながらもユーモラスに)

私は法王の答えに「光のオーラですか?」そんなことあるのかいな?
と一瞬でも、もしや…?と思った自分を恥じました。
そして、講演冒頭の「世間の常識的な所で」
「私はひとりの人として…」という宣言の意味を理解しました。

以前、カウンセラーの先生が「他者援助をしていると色んな人がやってくる。」と話したことを思い出しました。
そして、こんな事も思い出しました。
その人に起る現象は、その人にとっては真にある現象である。
それがどんな事であったとしても。

カウンセリング、セラピー、ヒーリングそして宗教。
思い、悩み、困った人は、どこかに助けを求めます。
そして「これは!」と思った人の所に集まってくるのです。

そして、私もその一人であったのだと。
弱る自分を救うため、法王からパワーを頂こうと…
私は、ここ数ヶ月で大きな転機があり、そして壁に阻まれたました。
そこで、講演で何かを大きな転機(気づき)を期待して行ったのです。

潜在的な意識が、結果的に自分の欲するものに向いてしまうことは、
実感としてよくあります。
しかし本当の所、この目に見えない、因果関係を証明するものなどどこにもありません。
私は、ついつい「必然性」そういうことに心奪われてしまいます。
それが問題解決の動機付けになるならばそれも良いと思います。
けれど、ワクワクとする、この不思議な巡り合わせ自体に心奪われることより、
現実に目を向け、地に足を着け、当たり前な事を当たり前な方法で考え行動すること。
「本質と向き合え」と法王に背中を叩かれてしまった気がしました。

大きな存在に依存し、期待し、自分のやるべきことをなさずに、そこに答えを求める。
それは、自分の生を放棄するのと同じです。
気づきは、他者から成されるものではなく、自分の内から起こるもの。
そして、それには苦しさ辛さ、葛藤を伴います。
しかし、自分の力で壁を破るからこそ、実感として理解し、気づきが成されるのです。

教科書を読むだけ、お経を唱えるだけ、良い話を聞くだけ、そんなことでは到底たどり着けないわけです。
つづく
posted by メイ・シオン at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | カウンセリング&セラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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