あしたのジョーは1960年代に漫画連載が始まり、1970年にアニメ放映が始まった。
ストーリーは、矢吹ジョーという身寄りのない不良少年が、終生のライバル・力石徹との宿命の出会いから、ボクシングを通じ、人々の暖かい愛を知り、自分の道を見つけ青年へと成長して行く過程を描いている。
ストーリーは何度となく再放送でも見ていたし、
それを懐かしく、何となく見てしまう…そんなノリだった。
けれど、改めて注意深く見ていると何か違和感が…
この物語りに登場するのは、お金持ちの白木葉子以外は、アル中の元ボクサー・丹下段平をはじめ不良少年やドロップアウト気味の人たちばかり。
すぐにキレたり、言葉遣いも乱暴な無法者がほとんどだ。
それなのに、今の人の「キレる」と大きく違うのだ。
例えば、ジョーと段平の会話内でも、段平が先に「バカヤロウー!」などとジョーに手を挙げたとしても、ジョーは怒りながらも「どういうつもりだ?」という投げかけをしている。
ジョーのライバル力石が、嫌がらせと挑発のつもりで丹下拳闘クラブ宛てにお祝いならぬ、葬式用の花輪を届けたシーンでも、
怒り心頭で電話で噛み付くジョーだが、やはり「何のマネだ!」と投げかけているのだ。
そして、投げかけられた方は、必ずその理由を答えている。
このような会話のやり取りは、色んな所で見られる。
それは、ジョーに限らず、物語りに出てくる人全てに言える。
このアニメが子ども向けだから、そこまで考えられて作られたのだろうか?
いや、違うと思う。
当時はそういうことが当たり前だったのだ。
当時は、全く違和感なく受け流された会話だった。
でも、これが現代だとしたら…
「どういうつもり?」「何のマネ?」などという言葉も、
それにまともに受答えする会話もないまま、
修羅場へと進んで行くのではないだろうか?
いったい、いつからそうなったのだろう…
コミュニケーションの簡略化が進んだから?
時間に追われた生活習慣がそれを生んだの?
とても考えさせられてしまった。
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私が思ったのは現代人は皆じこちゅーになってしまっているのではないでしょうか?
「どういうつもり?」「何のマネ?」と聞くって事は相手の気持ちに疑問を抱いているわけで視線が相手をむいています。でも今はすぐに何かされた「自分」にしか目が向かないから相手がどんなつもりでそうしてきたかなんてお構いなしで修羅場になってしまうのではないでしょうか。
あのスピリチュアル業界のいまや大御所、江原さんが先日TVで「今の時代皆想像力をなくしている」とおしゃっていました。相手の気持ちを推し量る想像力、ということだったと思います。
それとも通じるのではないでしょうか?
江原さんの「今の時代皆想像力をなくしている」というのも常々感じますよね。
その裏には、満たされない自己評価、自信のなさを感じます。
自分を受け入れる愛し方をしていれば、己ずと他人にも目が行くもの。江原さんのTVコメントは、「他人に優しく、愛情を持つこと」の大切さも説いてましたね。自分と向き合い正しい自己愛を手に入れるのが難しければ、他人に愛情を配ることで自己愛を得るという方法ですね。
卵が先か鶏が先か?と言った所でしょうか。