2018年07月14日

「ダライ・ラマ14世」ドキュメンタリー映画で『教育』を考える

先週の七夕の日、「ダライ・ラマ14世」の映画に行った。
曙橋から数分、関東で唯一のチベット人シェフによるチベットレストラン「タシデレ」での自主上映。
https://www.facebook.com/pg/tashidelektokyo/reviews/

こちらでは、盛んにイベントが行われているようで、レストランを通してチベットを伝える役割を担っているようだ。
上映前に、チャイと甘い炊き込みご飯(たぶんダシール)が振る舞われた。
ダシールは、隣にいた女性の話では、お祝い時などに振る舞われる日本の赤飯のようなものよう。
七夕前日は、法王83才の誕生日でもあった。

このブログでは、何度か法王に関する記事を書いている。

ダライ・ラマ講演へ(その1)(2006年11月10日)
http://maysion.seesaa.net/article/27257595.html

ダライ・ラマ講演へ(その2)
http://maysion.seesaa.net/article/27265890.html

ダライ・ラマ講演へ(その3)
http://maysion.seesaa.net/article/27428422.html

ダライ・ラマ講演へ(その4)
http://maysion.seesaa.net/article/27429415.html

ダライ・ラマ講演へ(その5)最終回
http://maysion.seesaa.net/article/27489884.html

ダライ・ラマ記者会見で思ったこと(2008年04月11日)
http://maysion.seesaa.net/article/93155479.html

チベット問題で思ったこと(2008年04月12日)
http://maysion.seesaa.net/article/93163862.html

チベット問題の憂い(2008年04月13日)
http://maysion.seesaa.net/article/93274731.html


先日、オウム事件での死刑が執行されたが、法王との出会いは、オウム事件があった頃に来日出演したニュース番組だ。
その時の印象は、今でも鮮明に覚えている。
ニコニコとした表情がとてもチャーミングなおじさん。
のしのしと歩き出てきた姿に、TV画面を通して何とも凄いオーラを感じた。
直感的に「あ〜この人は本物なんだ」と思った。
それから、私にとって唯一無二「尊敬」という言葉で表現する人物となった。
簡単にいうとただのファンだけれど…(笑)

今回の映画で思ったことを改めて記しておこうと、過去のブログを見返して気づいたことがある。
今回の映画でも感じ、過去のブログにも共通していること。
それは「教育」というテーマ。

映画では、日本の若者とチベット人の若者との対比がある。
ダラムサラのチベット・チルドレン・ヴィレッジで、多くの子ども達に質問に答えてもらうシーンでは、
皆、口々に「勉強は楽しい好き」という。

日本の若者に「勉強は好きか」と聞くとほとんどが「嫌い」と答える。
なぜ勉強するか?の問いに、良い大学出て、良いとこに就職して、高い給料を得て…
といったお決まりの答えが返ってくる。
東大前では「勉強は楽しい、知識欲を満たすため…」という答えもあったが…

「勉強」「知識」という概念が、日本では生きるための知識を得ることとは繋がっていない。
義務教育でつまらない授業を受け、テスト等の評価によってくじかれているからだ。
テストの評価が良い、イコール賢いではないのに…

一方でチベットの子ども達は、一様に自由に学べること、知識を身に付けられることに喜びを感じている。
これは、学校が整備されていないアフリカの子ども達が、すり減るように同じ本を大切に読み続けているのと共通する。
教育が受けられる、自由に知識が得られるというありがたさが、身に染みてわかっているのだ。
そういう子どもたちは、知識を得た先に開かれた希望を持っている。
先生になりたい(先生になって多くの子ども達に知識を身につけてもらいたい…私のように)
医者になりたい(医者になって多くの命を救いたい)
日本の子ども達のような漠然としたものではなく、大抵がこのような明確な答えを持っている。

日本の若者から出てくる言葉には、先の希望を持てない閉塞感がある。
チベット人と比べると、平和で何一つ不自由のない暮らしであるのだが…

「教育」とは、なんだろう?
日本の人たちは、それを考えることはあるだろうか?
学校での勉強以外に躾とか、道徳観とか、そういう答えが返ってくるかもしれない。

チベット人は、国を追われた人たちだ。
国が無いとはどういうことか?
家を持たない根無し草のようなもの。
家とは、ただの建物ではなく、人が何かしらのルールと文化を持ち、
それを拠り所にして生きる暮らしそのもののことではないだろうか。

チベット人たらしめるものとは何か?
仏教という信仰であり、その文化によって支えられてきた生き方そのものである。

人は、自分が何者か? と問うた時に、普段は意識することないアイデンティティによって支えられている。
アイデンティティとは、こんな価値観を持っていて、こんな時、こんな言葉を使い、こんな振る舞いをする。
「自分」という生きものは「こういう人」と無意識の定義があって、それが、昨日、今日、明日と変わらないことだ。
教育とは、アイデンティティに支えられ、人としての「自分」を育むためのものだと私は考えている。

怖ろしいのは、この「教育」は、人をいかようにもしてしまうことだ。
小さな頃に誘拐され、年端のいかない兵士として教育されてしまえば平気で人を殺す。

戦時中の日本でも、それに似た教育が成され、米兵は、鬼畜だと本当に思わされていたのだ。
今の日本はどうだろう?
戦時中のような洗脳教育は成されていないと安心していないだろうか?

国家は、平気でウソをつくのは、震災での原発問題の対応をみれば明白だ。
集団を束ねる時、ルールを徹底させる教育が成される。
日本の場合、今でも「考えさせない」教育が行われていると感じる。
考える能力を伸ばすと統制が取れなくなるからだ。
それを実感している人がどのくらいいるんだろうか…


私が「考えさせない教育」に気づいたのは、たかだか15年位前だった。
あるスクールに通っていた時、その勉強をする目的できている他の人が、
自分でそれに関する本や概要の一つも調べずに授業に臨んでいたことがきっかけだった。

受け身で与えられるのを待っている状態。

この私にとって不思議な感覚は、自分が先生業を始めてから、どうしてそういう人が多いのか?
その理由が明確になった。

日本人は、戦争中も戦後も、与えられ自ら考えることをしない教育に毒されていると。
テストでは、一つの答えしか導き出さない。
それに沿っていなければ丸がもらえない。
思考する能力を育まれない教育法だったからだ。

道徳の授業でも、善き事、悪しき事の二元論で結果から語られ、そこに至る経過についての洞察は行われない。
だから、深く考える力も身につかない。

しかも、教育者でさえ、その不可思議さに気づいていないのだから、洗脳がどれだけ深いかがわかる。



私が小学生の時、「一日一善」をスローガンに善いことをした日記をつけさせられた。
子ども達は、考える能力がないので、下駄箱にある友人の靴を出してあげることを毎日のように続けた。
すると、先生は「それは善い行いではない」とだけ告げた。
それ以降、どんな善行を記録したのか記憶がない。

健康情報でも同じで、TVでバナナが良いと言われればスーパーで売り切れる。
そこには、どうして良いのか?どんな成分がどのように働くからなのか?
という問いすら生まれない。


日本では専門書が売れずにハウツー本ばかりが売れるのは、こういう教育の背景が潜んでいるからだとも思う。
ハウツーとは、自分の頭で考えず、表面的に"できる"、結果として合っていれば良いのだ。
だから皆、悩んだとき、どうすれば良いのかという「解(方法)」ばかり求める。

日本の教育は、統制しやすい人間を作るため、考えるクセを放棄した、
バカを量産するものだと言って過言でないと実感している。

それは、生き方そのものに関わってくるものなのに…
誰かに解を委ね、それに従うだけはとても楽ちんだ。
しかし、その解が間違っていたら?
自分の命に関わることの解さえも、他人に委ねているとしたら?
命を取られても何もいえない。



映画の中では、日本の街頭でダライ・ラマへの質問を募りそれに答えてもらうシーンがある。
時にユーモアたっぷりに、時に真剣にその一問一答があった。

法王は、時折「I don't know(私にはわかりません)」と答えることがある。
自分の頭で考えるべき問いであると。
posted by メイ・シオン at 04:04 | Comment(0) | カウンセリング&セラピー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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