2006/6/20のブログの続きです。
それでは、どうすればこの面倒な自分の価値観の支配から逃れられるでしょうか?
まずは、その価値観を知らなければどうにもできません。
どんな時に、どんな価値観で物事を見ているのか?と自分を観察する事から始まります。
例えば、Aという友人が誰かの陰口を言っていたとします。
その陰口を聞いていた私は、段々と気分が悪くなるとします。
そのうち『Aは何て心の狭い人なんだろう』と思ったりして、Aさんを蔑んだとします。
この時、私は『人の陰口を言う人は心の狭い人』という価値観を持っているわけです。
そして『人の陰口をいうような心の狭い人は蔑んでよい』などという価値観もあるかもしれません。
そして『陰口を言う人は悪い人』とレッテルを貼り、Aさん=悪い人、という図式が私の中にできるわけです。
Aさんにしてみれば、陰口ではなく、ただの愚痴かもしれません。
既に価値観の違いから、Aさんの愚痴を陰口と思い込み決め付け、一人で気分が悪くなっている私がここにいるわけです。
そこで疑問です。
陰口は言ってはいけないですか?どこで誰がそう決めたのでしょうか?
それは、自分が育ってきた中で取り込んだ価値観です。
いつ、どこで、どうやって取り込んだかという、自分探しの旅がここから始まるのです。
こうやって、自分と相手の違いを知るには、まず、価値観の違いの中身を知る必要があります。
自分とは、何者なのか?という自分の型作る価値観を知らないと、漠然と相手を責めるだけで終わってしまいます。
そして、相手との溝を永遠に埋められず、同じ事の繰り返しを続ける人生を歩むのです。
もう、賢明な方はお気づきかも知れません。
本当の問題は、相手なのではありません。
気分を悪くさせているのは、自分自身なのです。
人間関係で持つ価値観は「男とはこうあるべき」「女とはこうあるべき」「父とは(母とは)こうあるべき」「兄弟とはこうあるべき」「教師とは…」「夫とは…」「妻とは…」「教師とは…」「上司とは…」と際限なくあります。
それに見合わないとその人を嫌ったり遠ざけたり、罵倒したりして、自分の気分を悪くさせています。
また「人のものは大事に扱う」などと常識的とされているような価値観にも、知らずに支配されていて、その価値観と違う事が起きると気分を悪くしているのです。
常識というのは実はあってないものですし、価値観は人によって違います。
ですから相手の価値観を変えることはできません。
相手の価値観との違いから気分が悪くなるとしたら、自分の気分の善し悪しは、一生他人任せ、他人に操られる一生になってしまいます。
自分の気分を操作できるのは自分だけ。気分が良いと感じれば気分が良い。悪いと感じれば悪い。
何が原因で自分の気分が悪いのか?
自分の価値観、それを知ることが気分の悪さの本当の解決なのです。
-完-
長々とお付合いいただいた方ありがとうございました。
時間が経ってダラダラになってしまいすみませんでした。
2008年06月21日
2008年06月20日
気分の悪さの本当の解決法-5
2006/6/19のブログの続きです。
価値観は、世代や人種によっても違います。
女性らしさを求められ育ってきた世代の人たちにとって、男性のような言葉遣いや粗暴な振る舞いをする女の子は到底認められません。
「なんてはしたない子だろう」ということになってしまいます。
また『子育ては夫婦でするべき』という価値観の女性が、『子育ては母親の仕事』という価値観の男性と結婚すれば、お互いの価値観のズレから、お互いを悪魔呼ばわりするようなことになるわけです。
それならば、価値観の同じ人同士とだけ関わっていけばいいじゃないか?と思う人がいるかもしれません。
また、それを実践しようとしている人もいるかもしれません。
けれども、それは、不可能でしょう。自分と全く同じ人間などこの世にいないからです。
どこかで必ず違いが生じ、その挑戦は失敗に終わります。
『誰かが、私の価値観に合わせてくれればいい』そんな虫の良い考えも出てくるかもしれません。
でも、その『誰か』とは誰ですか?自分がその『誰か』になる可能性もあるのです。
自分の人生の主人公は自分ですが、Aさんの人生の主人公はAさんで、あなたはその登場人物の『誰か』でしかないからです。
それなら価値観を捨てればいい…
そうです。その通りです。しかし、本当に価値観を捨てられますか?
その価値観を捨てるということは、自分を失くす(無にする)のと同じです。
それに、価値観の中には「私は赤色が好き」という自分自身で良く知っているものから、無意識に「マユゲの濃い人が苦手」などというものまであります。
無意識とは「意識できないもの」つまり自分で知ることのできないものになります。
自分のことなのに、自分で知らないなんて…?
と思うかも知れませんが、自分が話している時の表情を見ることができないのと同じように、未知の自分は無数にいるのです。
それでは、どうすればこの面倒な自分の価値観の支配から逃れられるでしょうか?
まずは、その価値観を知らなければどうにもできません。
つづく…
(引き伸ばしすぎ…(~_~;))
価値観は、世代や人種によっても違います。
女性らしさを求められ育ってきた世代の人たちにとって、男性のような言葉遣いや粗暴な振る舞いをする女の子は到底認められません。
「なんてはしたない子だろう」ということになってしまいます。
また『子育ては夫婦でするべき』という価値観の女性が、『子育ては母親の仕事』という価値観の男性と結婚すれば、お互いの価値観のズレから、お互いを悪魔呼ばわりするようなことになるわけです。
それならば、価値観の同じ人同士とだけ関わっていけばいいじゃないか?と思う人がいるかもしれません。
また、それを実践しようとしている人もいるかもしれません。
けれども、それは、不可能でしょう。自分と全く同じ人間などこの世にいないからです。
どこかで必ず違いが生じ、その挑戦は失敗に終わります。
『誰かが、私の価値観に合わせてくれればいい』そんな虫の良い考えも出てくるかもしれません。
でも、その『誰か』とは誰ですか?自分がその『誰か』になる可能性もあるのです。
自分の人生の主人公は自分ですが、Aさんの人生の主人公はAさんで、あなたはその登場人物の『誰か』でしかないからです。
それなら価値観を捨てればいい…
そうです。その通りです。しかし、本当に価値観を捨てられますか?
その価値観を捨てるということは、自分を失くす(無にする)のと同じです。
それに、価値観の中には「私は赤色が好き」という自分自身で良く知っているものから、無意識に「マユゲの濃い人が苦手」などというものまであります。
無意識とは「意識できないもの」つまり自分で知ることのできないものになります。
自分のことなのに、自分で知らないなんて…?
と思うかも知れませんが、自分が話している時の表情を見ることができないのと同じように、未知の自分は無数にいるのです。
それでは、どうすればこの面倒な自分の価値観の支配から逃れられるでしょうか?
まずは、その価値観を知らなければどうにもできません。
つづく…
(引き伸ばしすぎ…(~_~;))
2008年06月19日
気分の悪さの本当の解決法-4
2006/6/9のブログの続きです。
私は、自分が悪魔だった、いえ『自分も悪魔だった』と気づいてから、自分自身を見失いました。
アイデンティティの喪失です。
自分が何者であるか?というのが分からなくなると、そこから動けなくなります。
今まで、自分を人間だと思っていたのに、鏡を見たらなめくじだった。そんな衝撃です。
さて、話が大きく膨らみすぎてしまったので、元に戻しましょう。
私は、自分も悪魔であると気づいてから、それでは、なぜ周りの人を悪魔だと感じたのか?という問いが出てきました。
そして、一つのことにたどり着きました。
『人は、自分と違うものを排除したがる』ということです。
これは、生き物の免疫機構に似ています。外部からの侵入者(違うもの)は、敵と見なして攻撃するのです。
人の行動で言うと、自分が正しいと思っていることを否定されると、とても気分が悪くなります。
そして、その相手を悪者にして色んな事をします。
どうにかして、その相手をやっつけるためにです。
なぜそうするか?それは自分が正しいと思っていることを否定しないため、もっと言えば自分を否定せず、肯定したいためです。
そうやって、自分というものを型取っている価値観を守ろうとします。
自分を支えているのは、生まれてから学び育ててきた価値観です。
その価値観が、揺らぐ時、今までの自分が壊れてしまうかもしれない恐れから、とても気分が悪くなるのです。
では、その価値観とは何でしょう?
簡単なところでは『私は人間である』とか『私は男である』というようなものです。
例えば「おまえは、女の腐ったようなやつだ」と言われた男性は、気分を悪くするでしょう。
もっと詳しく言うと『私は成績が優秀だ』という価値観があるとします。
もし、自分より成績が優秀な人が現れると、今までの自分が壊れてしまいます。
そうすると、その価値観を守るために、何が何でもその人を蹴落とそうとするのです。
価値観とは、自分の中の行動や考えを測る一つのモノサシに過ぎません。
しかし、価値観にがんじがらめになると『成績が優秀でなければ自分ではない』ということに陥り、型(価値観)によってしか自分を測れなくなってしまうのです。
つづく
私は、自分が悪魔だった、いえ『自分も悪魔だった』と気づいてから、自分自身を見失いました。
アイデンティティの喪失です。
自分が何者であるか?というのが分からなくなると、そこから動けなくなります。
今まで、自分を人間だと思っていたのに、鏡を見たらなめくじだった。そんな衝撃です。
さて、話が大きく膨らみすぎてしまったので、元に戻しましょう。
私は、自分も悪魔であると気づいてから、それでは、なぜ周りの人を悪魔だと感じたのか?という問いが出てきました。
そして、一つのことにたどり着きました。
『人は、自分と違うものを排除したがる』ということです。
これは、生き物の免疫機構に似ています。外部からの侵入者(違うもの)は、敵と見なして攻撃するのです。
人の行動で言うと、自分が正しいと思っていることを否定されると、とても気分が悪くなります。
そして、その相手を悪者にして色んな事をします。
どうにかして、その相手をやっつけるためにです。
なぜそうするか?それは自分が正しいと思っていることを否定しないため、もっと言えば自分を否定せず、肯定したいためです。
そうやって、自分というものを型取っている価値観を守ろうとします。
自分を支えているのは、生まれてから学び育ててきた価値観です。
その価値観が、揺らぐ時、今までの自分が壊れてしまうかもしれない恐れから、とても気分が悪くなるのです。
では、その価値観とは何でしょう?
簡単なところでは『私は人間である』とか『私は男である』というようなものです。
例えば「おまえは、女の腐ったようなやつだ」と言われた男性は、気分を悪くするでしょう。
もっと詳しく言うと『私は成績が優秀だ』という価値観があるとします。
もし、自分より成績が優秀な人が現れると、今までの自分が壊れてしまいます。
そうすると、その価値観を守るために、何が何でもその人を蹴落とそうとするのです。
価値観とは、自分の中の行動や考えを測る一つのモノサシに過ぎません。
しかし、価値観にがんじがらめになると『成績が優秀でなければ自分ではない』ということに陥り、型(価値観)によってしか自分を測れなくなってしまうのです。
つづく
2008年06月14日
傘を持つ責任
梅雨時になると思い出すこと。
ある人からこんな事を聞いたことがある。
「雨が降りそうな日に、傘を持たずに出かける人は信じられない」
「友人で一人そういう人がいるのだけれど、一緒に出かけると、突然の雨にいつも一つの傘に二人で入る事になるの」
「またか!と思うけど、一人で傘さすわけにいかないでしょ?」
「濡れて具合が悪くならないように、いつも気をつけて持っているのに、結局、肩とか濡れて寒くなっちゃうの」
「なんで傘持ってこないのかしらね」
こういうシチュエーションは少なからずある。
傘を持つ人は、自分のために、まさかの時のために持って出かける。
(特に彼女は持病を持っているので)
そして雨から身を守る為傘をさすが、濡れてしまう友人を放っておくわけにはいかない。
ほとんどの人がこの状況なら半分でも傘をかすだろう。
でも、そのために彼女は具合悪くなってしまう。
万全の準備も台無しだ。
だったら貸さなきゃいい、と思う人もいるかもしれない。
だが、貸さないと選択できる人がどの位いるだろうか?
この場合、現実的に貸さないということは有り得ないと思う。
『貸さないと冷たい人と思われるかもしれない』
『貸したらいい人と思われるかも』
『普通貸すわよね。みんな貸すから貸さないわけにいかないじゃない』
『濡れる友人が気の毒で見ていられない』
『半分でも役にたつなら…』などなど。
貸す側の気持ちはそういうものだろう。
では、傘を持ってこない人はその時どういう気持ちなのだろう?
例えば…
『半分でも入れてくれて助かるわ。ありがたい』
『悪いなぁ、いつもいつも入れてもらって』
『いつも傘忘れちゃうのよね、私ったら』
『この位なら入れてもらわなくても大丈夫なんだけどなぁ、せっかくだから入れてもらおう』
『なんで雨が降るのかしら。出かける時は降ってなかったのよね。友人にはいつも悪いけど私が悪いわけじゃないわ。雨が降ってくるのが悪いのよ』
『少しくらいの雨なら傘なんてささない主義だから、持ってこないのよね』
『友人が傘持ってるんだから持ってる人は入れてくれるわよね』
『入れてもらわなくてもいいのに、お節介だな』
などと考えているかもしれない。
二人とも傘一つの事で様々な思いが錯綜しているかもしれない。
さて、傘をめぐる二人の思いを、あなたは想像できますか?
また、あなたは傘を貸す側ですか?貸される側でしょうか?
ある人からこんな事を聞いたことがある。
「雨が降りそうな日に、傘を持たずに出かける人は信じられない」
「友人で一人そういう人がいるのだけれど、一緒に出かけると、突然の雨にいつも一つの傘に二人で入る事になるの」
「またか!と思うけど、一人で傘さすわけにいかないでしょ?」
「濡れて具合が悪くならないように、いつも気をつけて持っているのに、結局、肩とか濡れて寒くなっちゃうの」
「なんで傘持ってこないのかしらね」
こういうシチュエーションは少なからずある。
傘を持つ人は、自分のために、まさかの時のために持って出かける。
(特に彼女は持病を持っているので)
そして雨から身を守る為傘をさすが、濡れてしまう友人を放っておくわけにはいかない。
ほとんどの人がこの状況なら半分でも傘をかすだろう。
でも、そのために彼女は具合悪くなってしまう。
万全の準備も台無しだ。
だったら貸さなきゃいい、と思う人もいるかもしれない。
だが、貸さないと選択できる人がどの位いるだろうか?
この場合、現実的に貸さないということは有り得ないと思う。
『貸さないと冷たい人と思われるかもしれない』
『貸したらいい人と思われるかも』
『普通貸すわよね。みんな貸すから貸さないわけにいかないじゃない』
『濡れる友人が気の毒で見ていられない』
『半分でも役にたつなら…』などなど。
貸す側の気持ちはそういうものだろう。
では、傘を持ってこない人はその時どういう気持ちなのだろう?
例えば…
『半分でも入れてくれて助かるわ。ありがたい』
『悪いなぁ、いつもいつも入れてもらって』
『いつも傘忘れちゃうのよね、私ったら』
『この位なら入れてもらわなくても大丈夫なんだけどなぁ、せっかくだから入れてもらおう』
『なんで雨が降るのかしら。出かける時は降ってなかったのよね。友人にはいつも悪いけど私が悪いわけじゃないわ。雨が降ってくるのが悪いのよ』
『少しくらいの雨なら傘なんてささない主義だから、持ってこないのよね』
『友人が傘持ってるんだから持ってる人は入れてくれるわよね』
『入れてもらわなくてもいいのに、お節介だな』
などと考えているかもしれない。
二人とも傘一つの事で様々な思いが錯綜しているかもしれない。
さて、傘をめぐる二人の思いを、あなたは想像できますか?
また、あなたは傘を貸す側ですか?貸される側でしょうか?
2008年06月09日
気分の悪さの本当の解決法-3
2006/6/5のブログの続きです。
「私自身が悪魔を呼び寄せている」と気づいても、それがなぜなのか、初めは全く理解できませんでした。
私が変人だから、変人を呼び寄せている。くらいにしか思えなかったのです。
でも、その変人ぶりは、私とは根っこが違うものでした。
私にとって悪魔と思える人は、自分が悪魔だなんてこれっぽっちも思っていません。
「ここが変だよ」と言っても、悪魔にとって、変ではないからです。
私が変と思っていることも、悪魔にとって日常的なことであり、常識的なことです。
悪魔達と付き合ううちに、私は何が正しいのか、わからなくなってしまいました。
悪魔達は言葉ではなく態度で言います。
「何でも自分が正しいと思うな」と。
私が正しいと思っていた事は、間違いなんだろうか?
私はそんなに悪い人間だろうか?
じゃあ、今まで私が正しいと思ってやってきたことは何だったんだろう?
そう気づき始めると、私は「おまえが本当は悪魔じゃないのか?」と何かに囁かれている気持ちになりました。
でも、そんなことは信じたくありません。
私だけでなく、誰でもそうだと思います。
映画「オーメン」のダミアンだって、自分が悪魔の子とわかった時、そのあまりに過酷な現実に絶叫していましたし(笑)
私は、自分が天使とまでいかなくとも、正しい行いをしている人間だと思っていました。
しかし、私が正しい人間であるならば、悪魔達の方が絶対に間違っているはずです。
そして、間違っているならば罰を受けてもおかしくないのです。
けれど、悪魔達は、必ずしも間違っているわけではありませんでした。
ある日、悪魔は人々の目の前で、信じられないことをしました。
私は許せない気持ちで『どうしてそんなことができるの?』と怒りにかられ、心の中で叫んでいました。
しかし、人々は何事もなかったように笑っていました。
誰も、悪魔を罰しませんでした。
『どうして?どうして誰も怒っていないの?』
『あれ?これってやっぱり私が変なのだろうか?』
私は、自分が変だ、自分の方が悪魔だったとはっきりと突きつけられてしまったのです。
つづく
「私自身が悪魔を呼び寄せている」と気づいても、それがなぜなのか、初めは全く理解できませんでした。
私が変人だから、変人を呼び寄せている。くらいにしか思えなかったのです。
でも、その変人ぶりは、私とは根っこが違うものでした。
私にとって悪魔と思える人は、自分が悪魔だなんてこれっぽっちも思っていません。
「ここが変だよ」と言っても、悪魔にとって、変ではないからです。
私が変と思っていることも、悪魔にとって日常的なことであり、常識的なことです。
悪魔達と付き合ううちに、私は何が正しいのか、わからなくなってしまいました。
悪魔達は言葉ではなく態度で言います。
「何でも自分が正しいと思うな」と。
私が正しいと思っていた事は、間違いなんだろうか?
私はそんなに悪い人間だろうか?
じゃあ、今まで私が正しいと思ってやってきたことは何だったんだろう?
そう気づき始めると、私は「おまえが本当は悪魔じゃないのか?」と何かに囁かれている気持ちになりました。
でも、そんなことは信じたくありません。
私だけでなく、誰でもそうだと思います。
映画「オーメン」のダミアンだって、自分が悪魔の子とわかった時、そのあまりに過酷な現実に絶叫していましたし(笑)
私は、自分が天使とまでいかなくとも、正しい行いをしている人間だと思っていました。
しかし、私が正しい人間であるならば、悪魔達の方が絶対に間違っているはずです。
そして、間違っているならば罰を受けてもおかしくないのです。
けれど、悪魔達は、必ずしも間違っているわけではありませんでした。
ある日、悪魔は人々の目の前で、信じられないことをしました。
私は許せない気持ちで『どうしてそんなことができるの?』と怒りにかられ、心の中で叫んでいました。
しかし、人々は何事もなかったように笑っていました。
誰も、悪魔を罰しませんでした。
『どうして?どうして誰も怒っていないの?』
『あれ?これってやっぱり私が変なのだろうか?』
私は、自分が変だ、自分の方が悪魔だったとはっきりと突きつけられてしまったのです。
つづく
2008年06月05日
気分の悪さの本当の解決法-2
-2008/6/4ブログの続きです-
子どもの頃、私にとって衝撃的な人は、私の気分を悪くさせるためにやってくる悪魔だと思っていました。
そして、どうしてもそういう人が許せませんでした。
私だけではなく、他の人の気分も悪くさせているので、そんな人は、この世にあってはならない。くらいに思っていました。
そして、学校を卒業したりして、その人と関わらなくて済むようになると、また別の悪魔のような人が現れました。
その人が目の前からいなくなると、また別の人が、そしてまた別の人がと、次々と人が変わるだけで、いつも同じような嫌な気分を繰り返していました。
そしていつしか、そういう人は常に私の目の前にいるようになったのです。
何でこんなに寄ってくるんだろう?
年と共にそんな疑問が湧いてきました。
カウンセリングを学ぶうちに、その答えが一つ見つかりました。
『気分が悪いと感じているのは、私自身。
同じことをされても、他の人の気分は必ずしも悪くはない』
という事でした。
そうすると、問題は私の中の問題で、悪魔と思っていたその人は、それを知るための手がかりを運んでくる人だと気づいたのです。
これが初めての私自身との出会いでした。
今まで知らなかった私の中の私に気づいた瞬間です。
私は、私の知らない私自身と出会うため、新しい気づきを得るために、次々と悪魔を呼び寄せていたのでした。
つづく
子どもの頃、私にとって衝撃的な人は、私の気分を悪くさせるためにやってくる悪魔だと思っていました。
そして、どうしてもそういう人が許せませんでした。
私だけではなく、他の人の気分も悪くさせているので、そんな人は、この世にあってはならない。くらいに思っていました。
そして、学校を卒業したりして、その人と関わらなくて済むようになると、また別の悪魔のような人が現れました。
その人が目の前からいなくなると、また別の人が、そしてまた別の人がと、次々と人が変わるだけで、いつも同じような嫌な気分を繰り返していました。
そしていつしか、そういう人は常に私の目の前にいるようになったのです。
何でこんなに寄ってくるんだろう?
年と共にそんな疑問が湧いてきました。
カウンセリングを学ぶうちに、その答えが一つ見つかりました。
『気分が悪いと感じているのは、私自身。
同じことをされても、他の人の気分は必ずしも悪くはない』
という事でした。
そうすると、問題は私の中の問題で、悪魔と思っていたその人は、それを知るための手がかりを運んでくる人だと気づいたのです。
これが初めての私自身との出会いでした。
今まで知らなかった私の中の私に気づいた瞬間です。
私は、私の知らない私自身と出会うため、新しい気づきを得るために、次々と悪魔を呼び寄せていたのでした。
つづく
2008年06月04日
気分の悪さの本当の解決法
とても気分の悪くなる出来事がある。
そんな時、あなたはどうしますか?
私がセルフ・カウンセリングに出会う前、出来事は全て話し合い、折り合いをつけることで解決すると信じていました。
けれども、それはいつも失敗に終わり、毎回同じことを繰り返すばかりの空しい日々を送っていました。
人は、自分が正しいと思う事にそって行動します。
しかし、『正しい』は、その人によって違い、必ずしも解決の答えにはならないのです。
『正論』という言葉があります。
正論を辞書で見ると、道理にかなった正しい議論・主張。とあり、『道理』は、物事がそうあるべきすじみち。ことわり。わけ。人の行うべき正しい道。とあります。
正論とは、『人の行なうべき正しい道を議論し主張する』ということになります。
私は何かにつけて、正論を説いてきました。
そして、正しいことを否定する人の方が、おかしいと思っていたので、この『正しい』に従って、長いこと人を裁いてきました。
内容は、正しいはずです。しかし、正しいことを言っても、人の心は動かない、相手は首を縦に振ってはくれません。
それは、人は理屈で動いているのではなく、自分の中の正しいと、それにそった感情をともなうからです。
カウンセリングを学び始めて、いつも同じことを繰り返す空しい原因が、自分自身にあると知りました。
自分自身が原因、というと「反省して自分を変えればいい」と思いがちですが、そうではありません。
それを無視してダメな自分を押し込めたり、無理に良い人に変わろうとしても、それは必ず失敗に終わります。
自分がそうなる原因には、それなりの理由があるからです。
私は、私自身を良く知らなかったために、その理由がわからぬまま、何度も同じ過ちを繰り返しました。
そして、それを相手が未熟だからという理由をつけたりして、相手のせいにしていました。
子どもの頃から、私の前に現れる、私にとって衝撃的な人物は、私の気分を悪くさせるためにやってくる悪魔だと思っていました。
しかし、後に、それは私自身が呼び寄せていたと知るのです。
つづく
そんな時、あなたはどうしますか?
私がセルフ・カウンセリングに出会う前、出来事は全て話し合い、折り合いをつけることで解決すると信じていました。
けれども、それはいつも失敗に終わり、毎回同じことを繰り返すばかりの空しい日々を送っていました。
人は、自分が正しいと思う事にそって行動します。
しかし、『正しい』は、その人によって違い、必ずしも解決の答えにはならないのです。
『正論』という言葉があります。
正論を辞書で見ると、道理にかなった正しい議論・主張。とあり、『道理』は、物事がそうあるべきすじみち。ことわり。わけ。人の行うべき正しい道。とあります。
正論とは、『人の行なうべき正しい道を議論し主張する』ということになります。
私は何かにつけて、正論を説いてきました。
そして、正しいことを否定する人の方が、おかしいと思っていたので、この『正しい』に従って、長いこと人を裁いてきました。
内容は、正しいはずです。しかし、正しいことを言っても、人の心は動かない、相手は首を縦に振ってはくれません。
それは、人は理屈で動いているのではなく、自分の中の正しいと、それにそった感情をともなうからです。
カウンセリングを学び始めて、いつも同じことを繰り返す空しい原因が、自分自身にあると知りました。
自分自身が原因、というと「反省して自分を変えればいい」と思いがちですが、そうではありません。
それを無視してダメな自分を押し込めたり、無理に良い人に変わろうとしても、それは必ず失敗に終わります。
自分がそうなる原因には、それなりの理由があるからです。
私は、私自身を良く知らなかったために、その理由がわからぬまま、何度も同じ過ちを繰り返しました。
そして、それを相手が未熟だからという理由をつけたりして、相手のせいにしていました。
子どもの頃から、私の前に現れる、私にとって衝撃的な人物は、私の気分を悪くさせるためにやってくる悪魔だと思っていました。
しかし、後に、それは私自身が呼び寄せていたと知るのです。
つづく
2008年05月28日
実践してた!?引き寄せの法則
「先生」と初めて呼ばれた時、とても違和感を感じた。
…先生
子どもの頃、先生と名の付く人を毛嫌いする時代があった。
「先生と呼ばれるほどバカは無し」どこかで聞いたその言葉。
先生と呼ばれる職業の中には、それが単純に敬意を示す言葉ではなく、蔑む意味もあることを知った。
誤った見せかけの敬意などは要らない。自分は将来絶対に先生だけにはならないと思った。
ところが、20代半ばも近くなった頃、ふと「将来、先生と呼ばれる仕事っていいかも」と思い始めたのだ。
それまで毛嫌いしていた「先生」を突然肯定的に捉えていた。
私は理論派で、当時は理屈の合わないことはとことん追及するやっかいな性格だった。しかしその時はなぜか、理由のはっきりしない、この漠然とした思いを消し去ろうとは思わなかった。
なぜそう思ったのか、その時のきっかけも未だにわからない。
自分の興味のまま始めたいくつかの学びは「将来先生になってもいいかも…?」という着付けから始まり、なぜか先生という名の付くものに繋がっていた。
ここ十年くらいではっきりしていたのは「教えることがけっこう好き」ということ。
職場でも、新しい人に教えるのは嬉々としていたし、説明がわかりやすくできた時は、心の中でガッツポーズをしていた。
でも、何が何でも先生をやりたいと渇望していたわけでもなく、説明が理解してもらえると「良かった〜嬉しいな」という程度。
アロマの講座で先生と呼ばれてもピンとこないで「えっ?誰のこと?」と思い、カウンセラーの仕事で初めて「先生」と呼ばれドキドキした。
そうこうするうちに、本当に継続して「先生」の仕事をすることになってしまった。
はて?
よく考えてみると、突然頭の中にひらめいた「先生と呼ばれる仕事をしたい」と思った時、全ては始まっていたのではないか?
昨年の今頃、ブログに「ザ・シークレット」のことを書いた。
今では本屋でも見かける引き寄せの法則のことだ。
「自分のなりたいをイメージし、疑わず願うだけでそれは叶う」という。
アロマセラピーも仕事にするつもりは全くなく、趣味の範囲と遠い将来に役立てるつもりだった。
将来のための第一歩として資格取得の勉強を始め「施術よりも先生やりたいんだ〜」などと口走っていながら、現実的な努力があったわけではなかった。
それがあれよあれよという間に、サロンを始めることになり、講師もやることになった。
どれもこれも、自発的に必死な努力で手に入れたものではない。
これってもしかして「引き寄せの法則」を知らない間に実践してたんじゃないの?
そうだ、確かに事あるごとに「教えるのがやりたい」「先生をやろうかと思って」などと話していた。
それは現実的な具体案ではなく、漠然とした夢物語として。
そしてそれは夢物語から現実となった。
他にも小さな引き寄せの法則は、生活の中でも行なわれていた事に気づく。
例えば「ラーメン食べたいなぁ〜」と思っているとラーメン屋にいくハメになっていたとか…
こんなふうに、本当は誰もが自分で気づかぬうちに、些細な事で引き寄せの法則を使っているんじゃないだろうか?
大それたマジックのようであって、本当はそんなものじゃないのだろう。
「先生」と呼ばれて、そんなことに気づいてしまった。
…先生
子どもの頃、先生と名の付く人を毛嫌いする時代があった。
「先生と呼ばれるほどバカは無し」どこかで聞いたその言葉。
先生と呼ばれる職業の中には、それが単純に敬意を示す言葉ではなく、蔑む意味もあることを知った。
誤った見せかけの敬意などは要らない。自分は将来絶対に先生だけにはならないと思った。
ところが、20代半ばも近くなった頃、ふと「将来、先生と呼ばれる仕事っていいかも」と思い始めたのだ。
それまで毛嫌いしていた「先生」を突然肯定的に捉えていた。
私は理論派で、当時は理屈の合わないことはとことん追及するやっかいな性格だった。しかしその時はなぜか、理由のはっきりしない、この漠然とした思いを消し去ろうとは思わなかった。
なぜそう思ったのか、その時のきっかけも未だにわからない。
自分の興味のまま始めたいくつかの学びは「将来先生になってもいいかも…?」という着付けから始まり、なぜか先生という名の付くものに繋がっていた。
ここ十年くらいではっきりしていたのは「教えることがけっこう好き」ということ。
職場でも、新しい人に教えるのは嬉々としていたし、説明がわかりやすくできた時は、心の中でガッツポーズをしていた。
でも、何が何でも先生をやりたいと渇望していたわけでもなく、説明が理解してもらえると「良かった〜嬉しいな」という程度。
アロマの講座で先生と呼ばれてもピンとこないで「えっ?誰のこと?」と思い、カウンセラーの仕事で初めて「先生」と呼ばれドキドキした。
そうこうするうちに、本当に継続して「先生」の仕事をすることになってしまった。
はて?
よく考えてみると、突然頭の中にひらめいた「先生と呼ばれる仕事をしたい」と思った時、全ては始まっていたのではないか?
昨年の今頃、ブログに「ザ・シークレット」のことを書いた。
今では本屋でも見かける引き寄せの法則のことだ。
「自分のなりたいをイメージし、疑わず願うだけでそれは叶う」という。
アロマセラピーも仕事にするつもりは全くなく、趣味の範囲と遠い将来に役立てるつもりだった。
将来のための第一歩として資格取得の勉強を始め「施術よりも先生やりたいんだ〜」などと口走っていながら、現実的な努力があったわけではなかった。
それがあれよあれよという間に、サロンを始めることになり、講師もやることになった。
どれもこれも、自発的に必死な努力で手に入れたものではない。
これってもしかして「引き寄せの法則」を知らない間に実践してたんじゃないの?
そうだ、確かに事あるごとに「教えるのがやりたい」「先生をやろうかと思って」などと話していた。
それは現実的な具体案ではなく、漠然とした夢物語として。
そしてそれは夢物語から現実となった。
他にも小さな引き寄せの法則は、生活の中でも行なわれていた事に気づく。
例えば「ラーメン食べたいなぁ〜」と思っているとラーメン屋にいくハメになっていたとか…
こんなふうに、本当は誰もが自分で気づかぬうちに、些細な事で引き寄せの法則を使っているんじゃないだろうか?
大それたマジックのようであって、本当はそんなものじゃないのだろう。
「先生」と呼ばれて、そんなことに気づいてしまった。
2008年04月21日
親子の会話できてますか?
4/8にお知らせしましたが、再度maysion-メイシオン-サイトよりお知らせです。
友人のカウンセリンググループ主催の講演会が行なわれます。
親子関係のコミュニケーションについての講演です。
毎日毎日、子どもに同じ小言を言ったりしていませんか?
さて、それはどうしてでしょう?
相手が子どもで内容を理解できていないから?
親の言う事は聞いていないから?
でも、全て理解できずに、全てを聞いていないわけではありませんね。
それでは、伝わっていることとそうでないこと、何が違うのでしょう?
子どもとの関わり方を考える機会です。
まだ空きがありますので、是非ともこの機会に!
「やる気のある子に育てるには」すぺーす・ひだまり講演会
今日からはじめよう!親子のハッピーコミュニケーション
新学年を迎えた今、子どもとしっかり向き合ってみませんか?
千葉県市川市で活動しているカウンセリング・グループ「すぺーす・ひだまり」主催の講演会です。
今回は、コミュニケーション研究所『人間舎』主宰の榎本千賀子先生をお招きしての講演です。
日時:2008.4.24(木) AM10:00〜11:30
会場:市川市文化会館 第2会議室
定員:先着30名(要予約)
参加費:1,000円
お問合せ、お申込は、「すぺーす・ひだまり」まで
詳細はこちらへどうぞ↓
http://maysion.com/news.html#hidamari-080409
友人のカウンセリンググループ主催の講演会が行なわれます。
親子関係のコミュニケーションについての講演です。
毎日毎日、子どもに同じ小言を言ったりしていませんか?
さて、それはどうしてでしょう?
相手が子どもで内容を理解できていないから?
親の言う事は聞いていないから?
でも、全て理解できずに、全てを聞いていないわけではありませんね。
それでは、伝わっていることとそうでないこと、何が違うのでしょう?
子どもとの関わり方を考える機会です。
まだ空きがありますので、是非ともこの機会に!
「やる気のある子に育てるには」すぺーす・ひだまり講演会
今日からはじめよう!親子のハッピーコミュニケーション
新学年を迎えた今、子どもとしっかり向き合ってみませんか?
千葉県市川市で活動しているカウンセリング・グループ「すぺーす・ひだまり」主催の講演会です。
今回は、コミュニケーション研究所『人間舎』主宰の榎本千賀子先生をお招きしての講演です。
日時:2008.4.24(木) AM10:00〜11:30
会場:市川市文化会館 第2会議室
定員:先着30名(要予約)
参加費:1,000円
お問合せ、お申込は、「すぺーす・ひだまり」まで
詳細はこちらへどうぞ↓
http://maysion.com/news.html#hidamari-080409
2008年04月08日
やる気のある子に育てるには
maysion-メイシオン-サイトよりお知らせです。
友人のカウンセリンググループ主催の講演会が行なわれます。
「やる気のある子に育てるには」すぺーす・ひだまり講演会
今日からはじめよう!親子のハッピーコミュニケーション
新学年を迎えた今、子どもとしっかり向き合ってみませんか?
千葉県市川市で活動しているカウンセリング・グループ「すぺーす・ひだまり」主催の講演会です。
今回は、コミュニケーション研究所『人間舎』主宰の榎本千賀子先生をお招きしての講演です。
日時:2008.4.24(木) AM10:00〜11:30
会場:市川市文化会館 第2会議室
定員:先着30名(要予約)
参加費:1,000円
お問合せ、お申込は、「すぺーす・ひだまり」まで
詳細はこちらへどうぞ↓
http://maysion.com/news.html#hidamari-080409
友人のカウンセリンググループ主催の講演会が行なわれます。
「やる気のある子に育てるには」すぺーす・ひだまり講演会
今日からはじめよう!親子のハッピーコミュニケーション
新学年を迎えた今、子どもとしっかり向き合ってみませんか?
千葉県市川市で活動しているカウンセリング・グループ「すぺーす・ひだまり」主催の講演会です。
今回は、コミュニケーション研究所『人間舎』主宰の榎本千賀子先生をお招きしての講演です。
日時:2008.4.24(木) AM10:00〜11:30
会場:市川市文化会館 第2会議室
定員:先着30名(要予約)
参加費:1,000円
お問合せ、お申込は、「すぺーす・ひだまり」まで
詳細はこちらへどうぞ↓
http://maysion.com/news.html#hidamari-080409
2008年03月03日
セルフ・カウンセリング「人間学」で
2日に、セルフ・カウンセリング学会の「人間学への招待」講座へ行ってきました。
『人間学』なんていうとすごい大それた感じですが「いかに生きるか」ということをセルフ流に、自己の出来事から探求していくものだと感じました。
さて、その中で気になった先生の話を少し…
心は目で見えない
心は目で見えないもの。心とは意識。
意識を言葉で表現して初めて心が見えてくる。
これは、もやもやと正体のつかめない自分の心もちも、言葉に表現して初めてリアルな自分がわかるのですね。
セルフ・カウンセリングに取組む一番の条件といえるでしょう。
己を愛する
たいていの場合『自分を愛する』と考える時、『理想とする己を愛している』
こうありたい、ああなりたいという理想の自分を愛しているのであって、等身大のありのままの自己を愛しているのではない。
ん〜そのとおりです。
ありのままの自己を愛していない証拠に、人は思った通りに振舞えなかったりすると落ち込んだり、反省したりしますからね。
ありのままとは、何の条件もつけないでという意味ですから。
そして最後に、講座内の実習でのキモの部分について触れたお話しで…
私はこれでいいんだ<I'm OK>
私はこれでいいんだ。と思っているとき、すでに自分の中でNGと感じている証拠。
う…そういうことでしたか。
この説明は、「人間学」のキモ部分になるのでちょっとひかえます。
なるほど、このプログラム中々奥が深いです。
『人間学』なんていうとすごい大それた感じですが「いかに生きるか」ということをセルフ流に、自己の出来事から探求していくものだと感じました。
さて、その中で気になった先生の話を少し…
心は目で見えない
心は目で見えないもの。心とは意識。
意識を言葉で表現して初めて心が見えてくる。
これは、もやもやと正体のつかめない自分の心もちも、言葉に表現して初めてリアルな自分がわかるのですね。
セルフ・カウンセリングに取組む一番の条件といえるでしょう。
己を愛する
たいていの場合『自分を愛する』と考える時、『理想とする己を愛している』
こうありたい、ああなりたいという理想の自分を愛しているのであって、等身大のありのままの自己を愛しているのではない。
ん〜そのとおりです。
ありのままの自己を愛していない証拠に、人は思った通りに振舞えなかったりすると落ち込んだり、反省したりしますからね。
ありのままとは、何の条件もつけないでという意味ですから。
そして最後に、講座内の実習でのキモの部分について触れたお話しで…
私はこれでいいんだ<I'm OK>
私はこれでいいんだ。と思っているとき、すでに自分の中でNGと感じている証拠。
う…そういうことでしたか。
この説明は、「人間学」のキモ部分になるのでちょっとひかえます。
なるほど、このプログラム中々奥が深いです。
2008年02月26日
ネコの生き様、人の生き様
何か面白いものがあるわけでもなく、ネルの目の高さにはベランダの塀があるだけ。
「ネル、何が面白いの?」
あ…
私は何か面白いものがなければ見ないのか…
人は、面白い特別なものがないとそれを見ない。
そんな風に思っているんだ。
『何かなければ見てはいけないの?』
ネルは、いつ風に動かされるともしれない枯れ葉を。
鳥が通り過ぎた、かすかに見える空を。
いつもと変わらぬ風景を。
ありのままを。
ただじっと見ている。
だんだんと暮れて行く外の風を感じながら、ただそこにいるんだ。
意味なんて大してない。ただただ、そこにいるんだ。
同じ時間に生き、同じ空間にいながら、
何にでも意味を求める、人の傲慢な暮らしとは、違う所に生きている。
あぁそうだ、そうなんだ。
そこで生きている、目の前にある当たり前を感じながら、息をしているだけ。
そうなんだね、ネル。
2008年02月04日
セルフ・カウンセリング-人生学への招待
「セルフ・カウンセリング」をご存知でしょうか?
今、巷では自分を見つめなおすという意味で、江原氏の本などでこの言葉が広まったようですが、セルフ・カウンセリングとは、1960年代に渡辺康麿氏によって創案された、自分で自分をカウンセリングできる、一人でできるカウンセリング方法です。
私は、1996年からこの学びを続けています。
始める前は、いつも同じことを繰り返すパターンにうんざりしていて、自分で解決できないもどかしさに体調を崩す日々でした。
しかし、半信半疑で学び続けていくと、いつのまにか自分で既に答えを持っていることに驚いたり、堂々巡りの思考パターンから抜け出せるようになっていました。
それと同時に、毎年6〜8回は風邪で寝込んでいたのに、それも減っていったのです。
不思議…というか、今、セラピストの私は、何故風邪で寝込まなくなったのかよ〜くわかります。
『心身一如』心とからだは切り離せない、相互作用が働くからです。
心の健康を手に入れたことで、からだも丈夫になったというわけです。
さて、この度、このセルフ・カウンセリング学会では、40周年記念特別学会として「人生学への招待」という実習と講義の講座が開かれます。
ちょっと硬い名前ですが“人生学”とは、『未来にどんなことが起こっても、ほんとうに安心して、生きてゆける道』について学びます。
セルフ・カウンセリング同様、人生そのものに活かしていくことができる実践的な講座です。
今回は、学会会員以外でも気軽に参加できます。
講演以外に、誰にでもできるゲーム感覚の実習もあります。
お弁当も付いてなんと3500円。学生さんは特別割引で2000円となっています。
どうぞ、この機会にセルフ・カウンセリングを知っている人も、知らない人も参加してみませんか?
私も参加しま〜す。
日時: 2008年3月2日(日) 午前10時〜午後5時
場所: 東京・代々木 国立オリンピック記念青少年総合センター 国際交流棟 国際会議室
(小田急線参宮橋駅 徒歩7分)
参加費: 3500円 (学生:2000円) 昼食(お弁当)代込
内容: 基調講演『人生学の創造』渡辺康麿(生涯学習セルフ・カウンセリング学会会長)
人生学にもとづく、研修プログラムの実習
申込先: 生涯学習セルフ・カウンセリング学会 事務局 40周年記念事業係
TEL 044-966-0485/FAX 044-954-3516
詳しくは学会公式HPへ http://www.self-c.net/index.html
申込ページ→http://www.self-c.net/society/info/2008/info_jimu_080302.html
申込締切: 2008年2月15日(金) もし締切を過ぎた場合、事務局までお問合せください。
今、巷では自分を見つめなおすという意味で、江原氏の本などでこの言葉が広まったようですが、セルフ・カウンセリングとは、1960年代に渡辺康麿氏によって創案された、自分で自分をカウンセリングできる、一人でできるカウンセリング方法です。
私は、1996年からこの学びを続けています。
始める前は、いつも同じことを繰り返すパターンにうんざりしていて、自分で解決できないもどかしさに体調を崩す日々でした。
しかし、半信半疑で学び続けていくと、いつのまにか自分で既に答えを持っていることに驚いたり、堂々巡りの思考パターンから抜け出せるようになっていました。
それと同時に、毎年6〜8回は風邪で寝込んでいたのに、それも減っていったのです。
不思議…というか、今、セラピストの私は、何故風邪で寝込まなくなったのかよ〜くわかります。
『心身一如』心とからだは切り離せない、相互作用が働くからです。
心の健康を手に入れたことで、からだも丈夫になったというわけです。
さて、この度、このセルフ・カウンセリング学会では、40周年記念特別学会として「人生学への招待」という実習と講義の講座が開かれます。
ちょっと硬い名前ですが“人生学”とは、『未来にどんなことが起こっても、ほんとうに安心して、生きてゆける道』について学びます。
セルフ・カウンセリング同様、人生そのものに活かしていくことができる実践的な講座です。
今回は、学会会員以外でも気軽に参加できます。
講演以外に、誰にでもできるゲーム感覚の実習もあります。
お弁当も付いてなんと3500円。学生さんは特別割引で2000円となっています。
どうぞ、この機会にセルフ・カウンセリングを知っている人も、知らない人も参加してみませんか?
私も参加しま〜す。
日時: 2008年3月2日(日) 午前10時〜午後5時
場所: 東京・代々木 国立オリンピック記念青少年総合センター 国際交流棟 国際会議室
(小田急線参宮橋駅 徒歩7分)
参加費: 3500円 (学生:2000円) 昼食(お弁当)代込
内容: 基調講演『人生学の創造』渡辺康麿(生涯学習セルフ・カウンセリング学会会長)
人生学にもとづく、研修プログラムの実習
申込先: 生涯学習セルフ・カウンセリング学会 事務局 40周年記念事業係
TEL 044-966-0485/FAX 044-954-3516
詳しくは学会公式HPへ http://www.self-c.net/index.html
申込ページ→http://www.self-c.net/society/info/2008/info_jimu_080302.html
申込締切: 2008年2月15日(金) もし締切を過ぎた場合、事務局までお問合せください。
2008年01月12日
バブルへGO!! -時代の社会通念-
映画「バブルへGO!!」がTVでやっていた。
広末涼子扮するヒロインがドラム式洗濯機のタイムマシンに乗り、
バブル時代の過去へ行き、バブル崩壊をくい止めるというストーリー。
バブル期というのは、高度成長期の物とお金があるのが裕福という価値観のゴールだったのだと思う。
当時のことを振り返ると、このまま右肩上がりがずっーと続くと誰もが思っていた。
そして、誰もがそのことを疑いもしなかった。
それが、当時の社会通念で常識的な考え、流行とも言えた。
けれど、この景気がいつまでも続くわけがないと思っていた、少数の人もいたわけだ。
……
これってどこかの時代に似てないか?
そう、昭和始め頃の、第一次世界大戦時だ。
戦時中、国民は「日本が勝つ」「日本の戦争は正しい」「天皇陛下は現人神」と本気で思っていた。
これも、当時の社会通念で常識的な考え、流行とも言えた。
そして、誰もそのことに疑いを持たなかった。
が、ここでもごく一部の人たちは、事実を把握していた。
当時は、そういう人たちを非国民とされ、他の踊らされていた人たちから非難されていた。
戦時中もバブル期も、世間の風潮にだれも疑問を抱かず、ごく少数の人たちだけが、本質を読み取っていた点が全く同じなのだ。
何でだろ?
もしかしたら、こういう構図は他の時期にもあるのかな?
人々が一時期に持つ社会通念とか価値観、流行とはいったいどこから来るのだろう?
マスコミなどによる、情報の刷り込みなのだろうか?
社会を揺るがす流行でなければ、問題はないけれど…
何年かごとに起きる、悪魔の囁きのように感じるのは私だけだろうか…?
どなたか、歴史に強い方がいたら教えてください。
もしかしたら、次なる悪魔の囁きが、既に始まっているのかも?
広末涼子扮するヒロインがドラム式洗濯機のタイムマシンに乗り、
バブル時代の過去へ行き、バブル崩壊をくい止めるというストーリー。
バブル期というのは、高度成長期の物とお金があるのが裕福という価値観のゴールだったのだと思う。
当時のことを振り返ると、このまま右肩上がりがずっーと続くと誰もが思っていた。
そして、誰もがそのことを疑いもしなかった。
それが、当時の社会通念で常識的な考え、流行とも言えた。
けれど、この景気がいつまでも続くわけがないと思っていた、少数の人もいたわけだ。
……
これってどこかの時代に似てないか?
そう、昭和始め頃の、第一次世界大戦時だ。
戦時中、国民は「日本が勝つ」「日本の戦争は正しい」「天皇陛下は現人神」と本気で思っていた。
これも、当時の社会通念で常識的な考え、流行とも言えた。
そして、誰もそのことに疑いを持たなかった。
が、ここでもごく一部の人たちは、事実を把握していた。
当時は、そういう人たちを非国民とされ、他の踊らされていた人たちから非難されていた。
戦時中もバブル期も、世間の風潮にだれも疑問を抱かず、ごく少数の人たちだけが、本質を読み取っていた点が全く同じなのだ。
何でだろ?
もしかしたら、こういう構図は他の時期にもあるのかな?
人々が一時期に持つ社会通念とか価値観、流行とはいったいどこから来るのだろう?
マスコミなどによる、情報の刷り込みなのだろうか?
社会を揺るがす流行でなければ、問題はないけれど…
何年かごとに起きる、悪魔の囁きのように感じるのは私だけだろうか…?
どなたか、歴史に強い方がいたら教えてください。
もしかしたら、次なる悪魔の囁きが、既に始まっているのかも?
2007年10月18日
亀田大毅ピンチを活かせ
もう、亀田家のことは語りたくなかった。
けれど、大毅選手の会見であらためて書かなくちゃと思った。
会見で謝罪もなく退席。
「あれは謝罪すべきだろう」とか「充分反省しているように見えた」とか…そういう反応がほとんどだったと思う。
彼の様子からは、憔悴しきったという感じは見てとれる。
もし、あれがポーズだとしたらかなりの大物だ。
試合後、負けた悔しさや全国的なパッシング、処分通告されてもなお、平然としていられるほどの神経だとしたら、かなり重症といわざる得ない。
ボクシング界のヒール。ヤンキーボクサーの崩壊。これで傷つかないわけがない。
想像してほしいのは、彼はまだ18才だということ。(18だよね…?)
お子さんがいる家庭なら、今の18才がどれだけ子どもかわかると思う。
そして、あらためて今回の経緯をたどれば、彼がどれだけ傷ついたかその本質がわかるはず。
彼のセコンドには、信頼しきった父と兄。
セコンドからは、反則でもいいからイケという内容の指示。
彼の耳にそれが届いていたとわかる、指示通りの反則行為の数々。
彼は言いつけ通り、反則行為を繰り返した。
その結果、負けてしかもその罪を問われる事に。
最も重要なのは、その後のセコンドの弁明。
「あれは亀田用語」「若さゆえ勝ちたくて反則におよんだ」
亀田用語でただのイケイケの指示だとしたら、大毅選手は亀田用語が理解できていなかったということ?
セコンドの指示通りにしたのに「若さゆえ〜」って…?
信頼しきった亀田家の人々に、大毅選手だけが悪者にされた弁明をされ、どんなに辛かったろう。
全能の神と思った人は、実は自分を地獄へ突き落とす悪魔だったという心境だろう。
傷つき、憔悴しきった一番の理由は、ここにあるのではないだろうか?
亀田大毅、18才。
今、18年の人生で最もピンチを迎えている。
だが、ここで折れてはだめだ。
このピンチこそ、自分の人生を左右する気づきの序章。
このチャンスを活かし、本当の試練を乗越えてほしい。
けれど、大毅選手の会見であらためて書かなくちゃと思った。
会見で謝罪もなく退席。
「あれは謝罪すべきだろう」とか「充分反省しているように見えた」とか…そういう反応がほとんどだったと思う。
彼の様子からは、憔悴しきったという感じは見てとれる。
もし、あれがポーズだとしたらかなりの大物だ。
試合後、負けた悔しさや全国的なパッシング、処分通告されてもなお、平然としていられるほどの神経だとしたら、かなり重症といわざる得ない。
ボクシング界のヒール。ヤンキーボクサーの崩壊。これで傷つかないわけがない。
想像してほしいのは、彼はまだ18才だということ。(18だよね…?)
お子さんがいる家庭なら、今の18才がどれだけ子どもかわかると思う。
そして、あらためて今回の経緯をたどれば、彼がどれだけ傷ついたかその本質がわかるはず。
彼のセコンドには、信頼しきった父と兄。
セコンドからは、反則でもいいからイケという内容の指示。
彼の耳にそれが届いていたとわかる、指示通りの反則行為の数々。
彼は言いつけ通り、反則行為を繰り返した。
その結果、負けてしかもその罪を問われる事に。
最も重要なのは、その後のセコンドの弁明。
「あれは亀田用語」「若さゆえ勝ちたくて反則におよんだ」
亀田用語でただのイケイケの指示だとしたら、大毅選手は亀田用語が理解できていなかったということ?
セコンドの指示通りにしたのに「若さゆえ〜」って…?
信頼しきった亀田家の人々に、大毅選手だけが悪者にされた弁明をされ、どんなに辛かったろう。
全能の神と思った人は、実は自分を地獄へ突き落とす悪魔だったという心境だろう。
傷つき、憔悴しきった一番の理由は、ここにあるのではないだろうか?
亀田大毅、18才。
今、18年の人生で最もピンチを迎えている。
だが、ここで折れてはだめだ。
このピンチこそ、自分の人生を左右する気づきの序章。
このチャンスを活かし、本当の試練を乗越えてほしい。
2007年10月14日
亀田一家にみる「毒になる親」
先月から通勤合間に「毒になる親
」という本を読んでいる。
もう随分前に出た本で読もうと思いつつ出遅れ、あるきっかけで今頃読んでいる。
「毒になる親」とは、米の医療機関心理セラピストが書いた本。
1999年に出版され、その後、文庫にもなっている。
カウンセラー、セラピストの間では、当たり前のことであるが、苦悩のほとんどが、全て親の影響(トラウマ)である、といっても過言ではないくらいなのだ。
著者は本の冒頭で「『神様』のような親」と表現し「小さな子どもにとって、親は生存のための全てであり、いわば神のようなものである」と言っている。
続けて「親は正しくて完璧と信じている限り、自分は守られていると感じることができ、安心するからだ」とも。
この本を読んでいる最中に、亀田一家のニュースとは、何というタイミングなのだろう。
亀田家は、父子家庭。その背景はわからないが、たった一人しかいない保護者である父の意思に背くことは、家庭内での死を意味している。
本人がボクシングが好きであろうとなかろうと、兄弟の一人がやれば、自分も認めて欲しくて負けじとやらざる得ない。
ボクシングが強くなれば、父は褒めてくれる。
父に褒められたい、父に好かれたい。
父に怒られたくない、父に嫌われたくない。
その奥には、父なしで生きていけない子どものいじらしさがある。
思春期も過ぎ、他人と接することも多くなり、父に対し少しの疑問を持ち始めても、自分が信じている父が一番のより所であることに変わりはない。
それは何故か?
父を否定してしまえば、自分のアイデンティティを否定する事になるから。
例えば「ずっと自分が日本人であると思っていたのに、実は違うアジアの人間だった」とか「自分の父母が実は養父母だった」というくらい、ショッキングで受入れがたいものなのだ。
亀田家の子供たちは、父が大好きなのだ。父を尊敬し愛しているのだ。
父に認められたくてボクシングを頑張った。
父を信じてきたから強くなれた。ボクシングで認められた。
ボクシングで勝つという評価も伴って、父への忠誠心と信頼は一層増す。
そうなってくると、父への疑念などこれっぽちも沸いてこない。
もし、あったとしても「言ったとおりやったら強くなれただろう」と言われれば、返す言葉もない。
亀田家の父が神であるかぎり、三兄弟の根深い苦悩は続くだろう。
彼らの努力を潰してはいけない。
諸悪の源はすべて父なのだから。
早く他人の大人たちの手によって、救い出されることを願うばかりだ。
もう随分前に出た本で読もうと思いつつ出遅れ、あるきっかけで今頃読んでいる。
「毒になる親」とは、米の医療機関心理セラピストが書いた本。
1999年に出版され、その後、文庫にもなっている。
カウンセラー、セラピストの間では、当たり前のことであるが、苦悩のほとんどが、全て親の影響(トラウマ)である、といっても過言ではないくらいなのだ。
著者は本の冒頭で「『神様』のような親」と表現し「小さな子どもにとって、親は生存のための全てであり、いわば神のようなものである」と言っている。
続けて「親は正しくて完璧と信じている限り、自分は守られていると感じることができ、安心するからだ」とも。
この本を読んでいる最中に、亀田一家のニュースとは、何というタイミングなのだろう。
亀田家は、父子家庭。その背景はわからないが、たった一人しかいない保護者である父の意思に背くことは、家庭内での死を意味している。
本人がボクシングが好きであろうとなかろうと、兄弟の一人がやれば、自分も認めて欲しくて負けじとやらざる得ない。
ボクシングが強くなれば、父は褒めてくれる。
父に褒められたい、父に好かれたい。
父に怒られたくない、父に嫌われたくない。
その奥には、父なしで生きていけない子どものいじらしさがある。
思春期も過ぎ、他人と接することも多くなり、父に対し少しの疑問を持ち始めても、自分が信じている父が一番のより所であることに変わりはない。
それは何故か?
父を否定してしまえば、自分のアイデンティティを否定する事になるから。
例えば「ずっと自分が日本人であると思っていたのに、実は違うアジアの人間だった」とか「自分の父母が実は養父母だった」というくらい、ショッキングで受入れがたいものなのだ。
亀田家の子供たちは、父が大好きなのだ。父を尊敬し愛しているのだ。
父に認められたくてボクシングを頑張った。
父を信じてきたから強くなれた。ボクシングで認められた。
ボクシングで勝つという評価も伴って、父への忠誠心と信頼は一層増す。
そうなってくると、父への疑念などこれっぽちも沸いてこない。
もし、あったとしても「言ったとおりやったら強くなれただろう」と言われれば、返す言葉もない。
亀田家の父が神であるかぎり、三兄弟の根深い苦悩は続くだろう。
彼らの努力を潰してはいけない。
諸悪の源はすべて父なのだから。
早く他人の大人たちの手によって、救い出されることを願うばかりだ。
2007年10月01日
セルフ・カウンセリング体験談
10年学んでいるセルフ・カウンセリングのメルマガが、春から発行されている。
ついこの間まで、セルフ・カウンセリングとは?
という導入部分の内容で、年齢に関係なくわかりやすいものだった。
基本の「き」は大事だが、大人はこの基本のまどろっこしい所が飽きてしまったりする。
メルマガは15回目を向かえて、新しく体験談の記事へと変わった。
以前に読んだ事がある内容だが、珍しい男性の体験談だ。
この方は、結婚生活2ヶ月半で離婚という体験を持ち、そのようなデリケートな部分についての体験談を書いている。
男性はとかく仮面が厚いので、自分に向合うこともままならない。
向合って見たくない自分に気づいたとしても、それを人に知られることをとても恐れる。
そんな中この方は、この体験記を公にすることを了承したのだ。
この勇気ある天晴な心に感謝したい。
もし、この貴重な体験記にご興味があれば、是非ともメルマガを見て欲しい。
メルマガ登録はこちら→http://www.mag2.com/m/0000231376.html
バックナンバーはこちら→http://blog.mag2.com/m/log/0000231376/
(今だったら体験談の1回目メルマガNo.15が最新です)
ついこの間まで、セルフ・カウンセリングとは?
という導入部分の内容で、年齢に関係なくわかりやすいものだった。
基本の「き」は大事だが、大人はこの基本のまどろっこしい所が飽きてしまったりする。
メルマガは15回目を向かえて、新しく体験談の記事へと変わった。
以前に読んだ事がある内容だが、珍しい男性の体験談だ。
この方は、結婚生活2ヶ月半で離婚という体験を持ち、そのようなデリケートな部分についての体験談を書いている。
男性はとかく仮面が厚いので、自分に向合うこともままならない。
向合って見たくない自分に気づいたとしても、それを人に知られることをとても恐れる。
そんな中この方は、この体験記を公にすることを了承したのだ。
この勇気ある天晴な心に感謝したい。
もし、この貴重な体験記にご興味があれば、是非ともメルマガを見て欲しい。
メルマガ登録はこちら→http://www.mag2.com/m/0000231376.html
バックナンバーはこちら→http://blog.mag2.com/m/log/0000231376/
(今だったら体験談の1回目メルマガNo.15が最新です)
2007年08月19日
24時間TVドラマで
24時間TVが夏の風物になって30年経つという。
今、30歳の人は生まれてから夏にはずっと放映されていることになる。
チャリティーをメインに続けられている番組だが、手塚アニメが終わってから(何年前の話だ…)特に興味はない。
というか、見たくないと言った方が正しいかな…
番組の作り方がお仕着せがましく、わざとらしいと感じてしまう私はへそ曲がりなのだろう。
それでも時々見てしまうことがあり、今回、不覚にもドラマを全編見てしかも泣いてしまった。
(番組の思うツボじゃん…
)
「君がくれた夏 ガンと闘った息子の730日」
原作「がんばれば、幸せになれるよ―小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉
」
実話を基に作られたこのドラマは、続きを読む
今、30歳の人は生まれてから夏にはずっと放映されていることになる。
チャリティーをメインに続けられている番組だが、手塚アニメが終わってから(何年前の話だ…)特に興味はない。
というか、見たくないと言った方が正しいかな…
番組の作り方がお仕着せがましく、わざとらしいと感じてしまう私はへそ曲がりなのだろう。
それでも時々見てしまうことがあり、今回、不覚にもドラマを全編見てしかも泣いてしまった。
(番組の思うツボじゃん…
「君がくれた夏 ガンと闘った息子の730日」
原作「がんばれば、幸せになれるよ―小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉
実話を基に作られたこのドラマは、続きを読む
2007年06月20日
2007年06月19日
ストレスの元がわかると
ここ半年位で行動範囲が更に広がって、いろんな人と出会う。
私の周りには、相変わらず色々と困った事を抱える人がやってくる。
10年前は、この悩み多き人に何もできない自分が大きなストレスだった。
自分の存在価値を、人(社会)の役に立つか立たないか、
その人を説得できるかできないかで裁いていたからだ。
カウンセリング技法の一つ交流分析では「過去と他人は変えられない」という。
私はその他人を変えようと躍起だった。
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私の周りには、相変わらず色々と困った事を抱える人がやってくる。
10年前は、この悩み多き人に何もできない自分が大きなストレスだった。
自分の存在価値を、人(社会)の役に立つか立たないか、
その人を説得できるかできないかで裁いていたからだ。
カウンセリング技法の一つ交流分析では「過去と他人は変えられない」という。
私はその他人を変えようと躍起だった。
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